三輪田学園の創立者三輪田眞佐子は、学園の教育理念として、「徳才兼備の女性の育成」を掲げました。これを現代風に直せば、「豊かな人間性と高い学力を併せ持った女性を育てる」ということになります。三輪田学園での6年間を通じて、人間としての価値観や市民としてのモラル、他者に寄り添う共感能力等を身につけて魅力ある人間に育ち、その豊かな人間性が学力のさらなる深化や統合につながり、世界をステージとして自らの人生を切り拓いて颯爽と生きる女性となる。これが三輪田教育の目指す「徳才兼備」の女性です。三輪田学園で行われる教育は、カリキュラム・学校行事・特別活動などの一つひとつに身につけて欲しい力の目標があり、すべてが総合的に「徳才兼備の女性の育成」につながるように計画されています。
三輪田教育で最も大切にされているのは、「誠実であること」。校歌の中にも謳われている「誠のほかに道なし」を常に念頭に置き、一日一日を充実して過ごすことが、「道=人間の正しい生き方」を実践することになり、「徳才兼備」の女性に一歩ずつ近づいていく、と三輪田眞佐子は教えています。三輪田学園ではこの教えを守り、日々の教科指導や特別活動、道徳教育、学校行事などのすべてを通じて、どんなときにも誠実さを行動基軸に置く生き方を学んでいきます。
創立者 三輪田眞佐子
天保14(1843)年 京都に生まれる。父が儒学者であったため、幼い頃から漢籍や古典に親しみ、12歳の時には、養父で儒学者の中条侍郎の家塾で代講を勤めるほどであったという。この頃から梁川星厳・紅蘭夫妻に漢学・詩・書、高橋武之に和歌を学んだ。
慶応2(1866)年より岩倉具視の子女の教育にあたり、明治2(1869)年伊予松山藩士・三輪田元綱と結婚した。元綱は維新政府で要職を勤めたが、やがて官を辞して妻子と共に松山に戻り、明治12(1879)年に死去。夫の死後、眞佐子は身につけた学問を活かし、明治13(1880)年、松山城下で明倫学舎を開塾。愛媛県立師範学校などで教鞭をとるかたわら、塾生の育成に励んだ。
明治20(1887)年には、一子元孝の教育のため上京を決意。明倫学舎を閉じ、上京して翠松学舎を開校。翠松学舎は当初男子部、女子部併設であったが、近代女子教育の必要性を痛感した眞佐子は、男子部を閉じ、女子教育に特化した家塾とした。これが現在の三輪田学園の基となった。
三輪田眞佐子、神田区東松下町に翠松学舎を開校
三輪田女学校4月1日開校(生徒定員300名)
三輪田高等女学校となる(5年制生徒定員約400名)
東京府内の私立としては2番目の認可
制服が決まる(1年生より着用)
4月14日、空襲により校舎を全焼 (1週間臨時休校)
学制改革により三輪田学園中学校となる
学制改革により三輪田学園高等学校となる(生徒定員600名)
三輪田高等女学校廃止
私立学校法制定により学校法人三輪田学園となる
鉄筋校舎の建設開始
100年記念館竣工
創立百周年記念式典挙行
新校舎竣工
創立130周年
100年記念館改装、制服改定・スラックス導入
大正3(1914)年制定 作詞:三輪田元道 作曲:岡野貞一